回顧録

 つい先日、昔の写真が必要になったので送って欲しいとの連絡があった。病院の介護の現場で働いてるときの写真。おそらくこの数年続けている大学の講演などに使うのだろう。たまに電話で話すのだが大嶋記胤の声を聞くと一緒に並走していた頃を思い胸が熱くなる。大嶋宏成の弟として存在していた記胤は人気ボクサーだった兄の後を追いかけるように、特異な経過を経てボクサーになった。ランキングに入ることなく引退するが、現在は最愛のパートナーと子供二人を得て幸せに暮らしている。

ボクサーとして現役だった頃、バンテージを巻いてグラブをつけ終えるといつも涙を流していた。リングへ上がる恐怖からという種類のものでなく、みんなが見守る後楽園ホールのリングへ上がれる喜びと、亡き祖父への後悔と感謝と祈りだった。多くのボクサーをみてきたがわたしが知る限り記胤だけだった。もう数年前になるが彼のことを書こうと荻窪の小さな公園で会う約束をして毎週のようにインタビューをしていたのを思い出す。情けないことに完成されることなく現在もあるけれど、20歳だった当時の彼の決意をプロローグといて書いてあるのでここに記したく。覚悟というのは人それぞれにある体験ですが、こんなことから始まって現在があるというのは奇跡だと思う。


プロローグ

季節はいつなのか分からない。少し冷えていた感覚があるから夏ではないだろう。行き場のない思考は冷淡に漂い、内なる狂人が自身に語りかける。

男が居る。競売に懸けられた豪華な邸宅に、独り、おそらく正午過ぎてから、ここに居る。かつてこの邸宅は、微かに家族の体温を感じられる唯一の場所だった。

 男は今日、街で買ってきた黒いハンマーと太く鋭いノミを両の手で握りながら台所に立ち、光りのない眼差しでそれらを見つめていた。左手の小指は根元からゴムで何十にも縛りつけて、すでに感覚はない。

 男は、左小指をのばしたまま、ノミの鈍い刃先を第二関節にあてがった。ノミの柄の下から刃先までの間を、残った4本の指で器用に持って固く握りしめた。その異様な状態の左手は、まな板を下敷きにしている。ハンマーを握っている右手は少し汗ばんでいた。主を失い、もう誰も帰ることのない無機質な空間に、荒くなった呼吸だけが響いている。ふいに男は地鳴りのような唸り声を上げた。その異常な緊張状態を数時間の間に何度も繰り返しているのだ。

 どれくらい経ったのか検討もつかない。

「殺ってやる」

 精神が臨界点を振り切った時、男は全身から振り絞った殺意を不気味な奇声に変えてノミをあてがっている左手を激しく凝視した。奇声は悪寒が走るほどの絶叫となり、閑散とした邸宅に突き刺さる。修羅の形相となった男は断末魔の雄叫びを上げながらハンマーを高く振り上げ、小指にあてがったノミの柄に目掛け一気に打ち下ろした。

 脳の奥まで響く乾いた音と同時に分離した小指は無造作にまな板から転がり落ちた。小指の切り口からは骨が飛び出して血が溢れ出している。だが、異次元に達した精神は、痛みを感じることはない。

「俺は誰からも逃げない。誰にも文句は言わせない」

 狂気の道理だ。

 たった独りでこの異常な行為をした男は、物心ついたときから両親の存在はなく、中学校など通うこともなく、当然のように暴走族の総長となって、犯罪を重ねた末に少年院に送致され、院の中でも手もつけられない凶暴性を発揮して皆から恐れられ、その噂を聞きつけた暴力団から出所と同時に勧誘され、全身に刺青を入れた覚せい剤中毒の暴力団構成員だった。

 若干二十歳の大嶋記胤はそれらすべてと決別するために自ら小指を切り落とした。