和氣慎吾を撮らせて頂いてからもう10年になる。
出会った頃からだとすると13年になるのだろうか。
1997年からBOXERと並走するようになってからでも10年という歳月をかけた対象はいない。
BOXERとして生きていく期間というのは人生のごく短いステージに限られると思う。現代ではデータに基づいた減量や、深いダメージを負う前にストップする傾向にあって、選手生命は昔よりも延びたと思うが、和氣慎吾が2016年に世界タイトル挑戦で負ったダメージは相当なものだった。
全てKOで勝ってきた無敗の世界チャンピオンに何度マットに這わされたことだろう。両目は血を噴いてふさがり、視界は殆ど失われていたと思う。通常であればとっくにレフリーストップの状態だったが、レフリーにその判断をさせない気概があった。むしろ後半は世界チャンピオンを追い詰めていく気配さえあった。意思というのを通り越して本能だけで闘っていたんだと思う。命に変えてでも世界タイトルが欲しかったということ。
和氣慎吾はかつて東洋チャンピオンになり、圧倒的な強さで連続KO防衛を重ねて世界トップコンテンダーとして名を連ねた華々しい印象があるが、彼のボクサー人生は荒波の中で懸命にもがきながら、時には耐え、待ち続けることしかできなかった時期もあった。いや、そうしたことの方がはるかに多いような気がする。
今日、本当に久々に会うことができた。その佇まいをみて、また「深く」なったと思った。それは歳をとったという意味ではない。限りあるボクサー人生をコロナ禍によって、また国内屈指の実力者ゆえに思うにまかせないマッチメークも含めて、ひたすら待ち続けなければならかったという不条理を受け入れて、自身を磨き続けた「深さ」だと思った。さほど本人に意識はないが、どうにもならない葛藤や苦しみを味あわなければ、あんな雰囲気は纏えない。
10月22日のリングに向けて疲労はピークのように感じるが、不動の意思があることを感じさせる。世界チャンピオンになると決めていること。いまの和氣慎吾には、そういう種類の「深さ」が滲んでいた。